服の寿命を迎える喜び

洋服が好きな皆さんの悩みには、きっと「収納場所の確保」があると思う。
ここを読む多くの方はシーズン毎に新しい服を買うオシャレ現役の人だろうし、中には体型や環境の変化によって着る服が変わり、新しく服を買い揃える人もいる。
そのときに、既存の服を躊躇無く処分できる人は、稀だと思う。

しかし体は一つだし、心は新しいものへ移り気だ。
そうして「いつか着られるだろう」あるいは「今度また着るし」と思ったまま着用機会の訪れないであろう服が増えていく。
(これは雑誌や本もそうだったりするのだけど)

その洋服はいつか、飽和状態になるか、家人の猛烈な抗議により、どうにかせざるを得なくなる。

しかし、処分を迫られる私たちには、その服への執着がある。
だからこそ処分できずにきた。
その執着は思い出という愛着だったり、まだ着られるという”もったいない感”だったり。

もしその処分方法が廃棄であったなら、その処分の残念さは最大になる。
できれば自分で着たい。
それがダメならば、誰か価値を理解してくれる人に譲りたい。
だから友達に譲ったり、フリマや古着屋で売る。
それもできなければ、ゴミとして廃棄する。

そうやって泣く泣く服を処分していることだろう。


もし一番悔いのない処分を挙げるとするならば、それは散々着倒して、引っ掛けて破れたり染みを着けたというようなアクシデントもなく、経年的に消耗し、物理的に着られなくなったときではないかと思う。
いや、皆さんにとってそうであるかはわからないが、私にとってはそうだ。

その物理的に着られないという状態だが、たとえば海外の貧しい人を見ていると、あちこちが破れても、まだ着ているが、さすがにそういう状態は日本では現実的ではない。
大きく型崩れしたり、ほつれや擦り切れが目立って、みっともなくて着られないという状態だろう。

先日、5年くらい着ていたANVILのTシャツがそういう状態になった。

ANVILのTシャツは5.6ozのヘヴィーウエイト生地で、頑丈だと言われている。
そのTシャツだが、着始めて1年くらいで襟の2本針補強糸がほつれた。
首元をつかんで脱いでいたから切れたのだろう。
多分、みっともないという面では、ここで寿命だったのだと思う。

それでも「この補強糸は、本縫い部分を補強するものだ」と室内着として着続けた。
(リップストップ生地だって、破れても使い続けられるためのものでしょう?)
それから3年経って、洗濯で生地にかかるテンションで、袖口の縫い穴が何箇所が広がってきた。

捨てたくもあるが、まだ着られると思いながらも、いつダメになるかが楽しみになってきていた。
そして今年、ついに襟とボディを縫い付けている糸がほつれた。

その時ようやく寿命だと、嬉しくなってしまった。
やっと悔いなく捨てられるときが来たと”ご苦労様”と思いつつ、ゴミ箱へと投棄した。

脆弱な服であっては困るけれど、そうやってしっかり作ってある服を寿命だと思えるまで着続けたのには、思いもしなかった喜びがあった。

今目標としているのは、sol-designのカットソーが、いつ擦り切れるだろうかということ。(参照)
経験上、服の損壊は大抵ほつれからくるが、ほつれる様子は全く感じられない。
(sol-designは残念ながら営業を中止してしまったようだ)

願わくば全ての服を、こうやって寿命まで着たいものである。

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わずか500円のTシャツにしては、本当に活躍してくれました。

ANVILのTシャツ


Comments

“服の寿命を迎える喜び” への3件のフィードバック

  1. ガケップのアバター
    ガケップ

    >家人の猛烈な抗議
    実体験でしょうか?大変ですよね

    最後の一言、とても同感します。
    ペットが亡くなったときのように号泣とかしたりしませんが、
    自分は服を捨てるとき、「おつかれさまでした」「ありがとう」
    と心の中でつぶやいて、少し感傷にひたったりします。
    長年着た服は、なかなか悔いなく捨てることができませんね。

  2. >ガケップ
    実体験では無いんですが、似たようなものでしょうかね。

  3. 服の寿命の見極めは本当に難しいですよね。
    まだ着られるけど経年劣化したものを
    人に譲るのはためらわれてしまうので
    (相手が気にしなくても私が気になるので)
    まさに室内普段着として着倒してしまいます。

    そして着倒して手放すときでも、
    馬鹿丁寧に奇麗に畳んで別れを告げている私です笑

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