しばらく前に両国さくらさんのブログの記事に「日本のメディアはみんなヒモつきで、適正なファッション批評がされていないのではないか?」とコメントしたところ、極めて丁寧なご返答記事を執筆していただいた。
要約を引用させていただく。
1.一般向けメディアのうち、一般紙の場合は、優秀な人材をコレクション担当者として育成しようという社の方針がないため。また、ファッション担当記者は肩身の狭い立場に置かれる社風のため。
2.一般向けメディアのうち、特に雑誌の場合は、読者に掲載商品を売りたいというコンセプトに立って編集されているため。
3.業界紙誌は、第一義的には、業界の企画担当者向けの情報素材提供のため、コレクション報道を行っているため。
4.日本人の国民性そのものに、批評や批判をあまり好まないところがあるため。
5.記者の中に(特に業界紙誌)、懇意になった日本人デザイナーに対して「応援してあげたい」といった感情を抱く者が多々存在するため。
「日本のファッション報道、批評精神欠如の理由は」その1、その2、その3
どれも納得できる答であるのだが、私が思ったことを書いてみたい。
【出版の立場】
ヨーロッパでのファッション誌を見てみると、あきらかに日本のファッション誌とはスタンスが違っていて、ファッションを文化や美術鑑賞的なものとして扱っている。
ところが日本のファッション誌の主な役割は「オシャレ扇動誌」である。
そうなってくると、コレクションを紙面に載せる意味は「新作発表!」という購買扇動ばかりで、それがモード史や服装学的にどういう意味を持つかなんて、書く意味はまるでないといえる。
またファッションブランドやショップの広告と協賛で成り立っている以上、そういう記事を載せていると雑誌作りが困難になる。
新聞などでの報道となると、一般人に対するものであるので、コレクションの解説をすることだけで充分であり、評価をする意味はほとんどない。
【執筆者の立場】
コレクションというのは、主催者から呼ばれた人しか観ることの出来ない、特殊なショーである。
この点が、他の批評を浴びる分野と大きく違っている。
もし辛辣な(むしろ正直な?)感想を書く人がいた場合、その人は主催者からしてみれば望まない人になる。
そういう人は主催者都合でシャットアウトすることが出来るだろう。
また、ランウェイショーでは、服の細部を見ることが難しい。
より詳細な情報を得るには、後日の展示会に行き各商品をじっくり見ることや、デザイナーへのインタビューが必要になる。
ネガティヴな記事を書く人の場合、そういうことが難しくなる。
さらに両国さくらさんが5で挙げたように、実際に面識が出来てしまった人を、ずばりと非難することというのは、とても難しい。
そうやって批判して、また次のシーズンにしれっとしてインタビューなんて、中々できない。
だから彼らはネガティブリストに挙げるのではなく、ポジティブリストに挙げるという方法で評価をする。
(つまり良くないコレクションを挙げつらうのでなく、良いコレクションを挙げるという方法)
これらは、コレクションというのが極めて閉鎖的な環境に置かれていることが原因だろう。
【消費者の立場】
コレクションの良し悪し、好き嫌いがあったとしても、消費者として立ち会う場合は、店頭にある商品各々になる。
そうなるとコレクションがどうのとか、ショーでのコーディネートがどうであるかではなく、自分と(そしてワードローブと)各商品との関係になるわけで、コレクション批評というのはほぼ無価値になる。
【読者の立場】
まずもってファッションを文化的に捉えている人というのが非常に少ない。(周りにどれだけこういう話が出来る人間がいるだろう?)
モードをその”横”つまり当該シーズントレンドで捉えている人は大勢いるだろうが、モードを”縦”つまり経時的な観点から見ている人は更に少ない。
First Viewなどで過去のコレクションを調べることはできるが、基本的に過去のモードはどんどん消滅していく。
よってモードを縦に把握するには、自分で蓄積していかないといけない。
音楽や映画ならば、手軽に過去の作品へアクセスできるが、これはモードというジャンルの特異性だろう。
つまり、我々のようにモードを批評しようとする読者は圧倒的に少ないというわけだ。
そういう希少なターゲットに対して、大衆メディアを使う方が、そもそもありえない。
これは、そういう面でファッション文化を醸成してこなかった先人たちに責任を押し付けたい…
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