新年あけましておめでとうございます。
更新を怠っていましたのは、年末年始の用事に忙殺されていたのと、1月より再就職したため、新入社に伴う忙しさのためです。
一応ご報告ですが、現在埼玉の実家にいますが、職場が新宿になったので、近々その辺りへ引っ越します。
これからは都内の洋服屋を見に回ることも増えるでしょう。
さて、新年一発目の記事は
「男たちへ」(塩野七生)
昨年パリコレに行った際に持っていって読んだのですが、余りに素晴らしい内容に、生まれて初めて付箋を付けながら読んでしまいました。
以下に特に気に入った文章を抜粋します。
「頭の良い男」とは、なにごとも自らの頭で考え、それにもとづいて判断をくだし、ために偏見にとらわれず、なにかの主義主張にこり固まった人々に比べて柔軟性に富み、それでいて深い洞察力を持つ男。
混血美女のモデルが専門家に着付けしてもらって、帯締めからなにから正式な訪問着をまとった姿と、生まれも育ちも京都そのものの老舗の若奥さんが、色半衿あたりで遊んだ和服をふわりとまとった姿。衣裳とは洋の東西を問わず装うものであって装われるものではない。そしてこういうことになると、伝統が初めてものを言うのである。
女物のシャツ、即ちブラウスと、男物のブラウスは同じではない。女物は上着的に独立してから長い時代が過ぎているが、男物はずっと下着で続いて今日に至っている。
衿と袖口の装飾ばかり発達したのが、何よりの証拠だ。
今だって、いかに洋服の伝統の無い我が国の男達でさえ、上着を脱いでワイシャツ姿だけになる時は、失礼して上着を取らせてもらいます、ぐらい言うではないか。
オペラを聴衆に理解してもらおうと日本語版で上演する心意気はわかるが、理解はしても酔えなくなった芸術は、もう芸術ではないのではなかろうか。
よく、話題のない人、という評価を耳にすることがある。だが、話題のまったくない人などいるものではない。共通の話題がないか、それとも精神的なつながりを持っていない者同士が話すからである。
装うとは、着る人間の個性に合ったものであるべきである、という従来の考えに、私はまったく賛成しない。装うとは、着る人間がどのような個性を生きたいかで、決まるものだと私は信じている。
ボクは面倒くさくてお洒落をしないんです。という男がいる。
しかし面倒くさいということは、お洒落だけでなく、すべてにつながることであり、また面倒だからというのは、感受性や好奇心の欠如を、カムフラージュするのに使われることが多い。
時間が無くて、という言い訳とよく似ている。私は、時間が無くて本も読めません、という弁解を、絶対に信じない。
燃え上がった恋愛は、そのまま燃やすに任せるのが、自然な対応なのである。水をかけて、それでもなお燃えているならホンモノという考えは、恋愛を味わう資格なし、と私ならば思う。
外国語を習得する情熱とほとんど同じくらいの情熱を、母国語習得にも向けられて当然だと思う。母国語をうまく使えない人に、巧みでかつ意味深長な外国語を期待できるはずも無いのだから。なぜなら、道具とは、同じ道具さえ得られれば、結果を決めるのは、その使い方でしかないからである。
以上が、私の心に響いた言葉の一部です。
これほどまでに頭の冴えたエッセイを、初めて読みました。
近所のブックオフでも100円コーナーにあると思いますので、興味を持った人はぜひ。
いい年にしましょう。
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