身分相応の服というのがあると思っている。
昨年パリのエルメスに行って
「俺はここにいる人間じゃない」
と感じたのだ。
エルメスのアイテムの価格は驚くほど高い。
「質に見合った価格」というのかもしれないが、過剰な高品質のレベルである。
あの価格をみて「これは値段を見ないで買う人のためものなのだ。エルメスを目指して買う人のものではなく、当然エルメスを買うべき身分の人のための商品なのだ」と思った。
例えばマウリツィオペコラーロのジャケット50万円というのも、値段を見て考えるような人の買う服では無いのではないか。
そしてルイヴィトンのバッグは、本来手ずからバッグを持つ人のためのものではない。
人に持たせる立場の者が所有するバッグである。
(さらに言わせて貰えば、ルイヴィトンのモノグラムに価格だけの品質価値は無い。
木綿にコーティングしただけの素材に、あれだけの値段がつくのは異常である)
高品質で一生物だから欲しいというのは大きな勘違いで、どんなしっかりしたカバンでも財布でも、糸はほつれるし、ジッパーは壊れる。
技術品質やリペアサポートに関して言えば、吉田カバンだって対等だと思う。
中村うさぎは語る
「ブランド物を、その品質の高さで選ぶ人間が、この世にどれほどいるのか。ブランド物の魅力とは、見栄が張れるという、この一点である」
ずばりこの通り。
余談ではあるが、つい最近読んだコラムで以下のような記事があった。(原文を載せたいのだが、どこで読んだか忘れてしまった…)
曰く
「現在の日本で階級差というのは希薄であり、セレブリティというのは存在しない。
そして日本人女性がドレスを着る機会というのは、現実には結婚披露宴しか無い。
しかし芸能人などが集まるパーティ会場ではドレスを着る機会があり、それにドレスを着て出席できる人たちを『セレブ』という日本語英語で定義したものである。つまりドレスを着て歩けるような人種がセレブと呼ぶのであり、叶姉妹はそれの体現者である。
彼女達が何をして生計を立てているのかはどうでもよく、どこへでもドレスを着て出て行ってしまう、あのスタンスこそがセレブなのである。
ところが実はもっと手軽にセレブを表現しうるのは着物なのかもしれない。着物を着て外出することはハレを表現することができ、なおかつ日常で幾度も活用できるものなのである」
物の価値というのは、それが生まれた文化的背景を伴ってこそ、それ本来の価値を放つものであると思われる。
マノロブラニクのミュールは、おそらくアスファルトを歩くためには作られていないのである。
スーパー150’sの生地は、高温多湿の日本向けの生地ではないのである。
身分不相応の高級品を持たせようとさせるのが、ブランドマーケティングの仕掛けです→
(今回の文章は何だか自分でも納得いっていません。多分書きたいことがぶれています…)
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