「知る」ことの弊害

服を語るようになってしまって残念だと思うことがある。

「そんなに服が好きで、詳しいなら自分で作らないの」と訊かれる事が
ある。
しかし服を作る難しさを知ってしまったため、それが足枷になって
しまっている。
詳細な作り方を求めたり、知っている技術を無闇に使いたくなってしまう。
「生地を裁断したら寝かせてクセをとれ」とか「縫い糸は何番手が良い」とか、
想像すると服作りが恐ろしく複雑に思えてしまう。
服作りなんてとりあえず作ってみて、駄目な点を修正していけばいいじゃ
ないかとも思う。
でももう駄目なのだ。
想像すると服を作る難しさにおののいて、手が出ない。


縫製をチェックする癖がついた。
縫製の悪いキャラクターブランドがあり、縫い目が1、2ヶ所飛んでたり、
裏の縫い目がよれてたりする。
しかし日常の耐久性には何の問題はない。
それに大抵壊れる前に飽きて着なくなる。
もし数回の洗濯でほつれたならばクレームをつけて交換してもらえば
良いだけの話ではないか。
でももう駄目なのだ。
そこのブランドの服を買いたくないと思う。

デザイナーの思想がどうだろうとか、シーズンテーマがどうだとか
工場がどこだろうとか、買う際には関係ない。
選ぶのは目の前のその1点。
相対評価でなく絶対評価。着たいか着たくないかだけで十分だ。

服のことを知っていたって、お洒落とは限らないし、ましてや
偉くも立派でもない。
私なんて語るレベルと自分の服装のレベルのギャップに情けなく
なることがある。
語るなんてみっともなく思えることも多々ある。

そんな羞恥心を感じながらも「教えてくれてありがとう」という言葉に
だけ救いを求めて(偉そうな)発言を繰り返すのだ。

無論知ることの楽しさや、視野の広がりが楽しくもある。
しかし一度難しく考えてしまうと、気軽に行えるようになるのは大変だ。

やろうと思ったらほんの少しの知識だけで飛び込めば良い。

服を知りすぎたと思った人間からの忠告です。

やっぱりアパレルに飛び込みたいかい?


Comments

“「知る」ことの弊害” への1件のコメント

  1. ハンニャのアバター
    ハンニャ

    飛び込みたい。

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