粗の美、整の美

色んな芸術を見ていて気付いたことだが、人が美しいと思うときには、粗と整の美の概念があるのではないかと思うのだ。

西洋食器のコントロールされた整然なる美しさに対し、日本の陶芸では、焼き窯内で起こる、歪みやまだら模様などの、製作者のコントロールを外れた要素が、その美しさを作る。

音楽においては打ち込みの(ほぼ)ジャストタイミングで鳴る音楽の安心感に対して、ブルースミュージックのリズムもピッチもジャストタイムから絶妙にずれたバランスが、その美しさを作る。


長らく西洋では整然とした美しさが追求されてきた。
理想のバランスを求めて、黄金比なる概念までできた。

整の美は理性でコントロールされた、理想の美である
粗の美はコントロールを外れたゆらぎを取り込み、それこそが自然であると認める、等身大の美である。

さてこれはファッションにおいても見出すことができる。
西洋では理想のプロポーションを求めて、身体を補正するファッションが貫かれていた。
あるいは身体補正でなくても、幾何学的なバランスを服に求めていた。

それを根底から崩したのが日本のデザイナーである。

具体的には日本の世界服飾史に残る4人のデザイナー。
高田賢三、三宅一生、山本耀司、川久保玲。

彼らは洋服の舞台へ、モードの概念になかったものを持ち込んだ。

高田賢三はフォークロアというデザイン。
三宅一生はデフォルムのデザイン。
山本耀司はデコンストラクトというデザイン。
川久保玲は…一概には言えないが、美しく無いとされていたものに価値を見出したと言えばいいだろうか?

一つ注意していただきたいのが、これらは偉大な功績であるけれど、モードの舞台で西洋流に勝負したものではないということだ。
誤解を招くような言い方をすれば、奇策とも言える。

それに対して勝負していったのが、後の山本耀司で「クチュールくらい俺にもできるさ」とクチュール的作品に取り組んだのは記憶に新しい。
そうして彼はマエストロの名をほしいままにする。

我々日本人は、元来粗の美を楽しめる文化に育ってきた。
「洋」に圧倒的に侵食されてしまっているが、味の出たもの(経年変化)を楽しめるような下地も出来てきている。
またAski Kataskiの牧野さんに関して言えば、ずばり粗の美を土壌に持つ人だと思う。

日本流が見直されつつある中である。粗の美に目を向けて見るのも一興ではないだろうか。

(その美的感覚の違いに対する考察は、別の機会にできたら)

※現在転職活動および転居により、身辺で色々あるもので更新頻度が下がっています。(楽しみにしていらっしゃる方がいましたら)すいません。

粗の美に興味を持った方はクリック→


Comments

“粗の美、整の美” への3件のフィードバック

  1. めがねのアバター
    めがね

    久しぶりに拝見しました。パリでは暴動等は無かったようですね。ご無事で何よりです。

  2. オボカタのアバター
    オボカタ

    こんにちは、ご無沙汰してます。
    オボカタです。

    興味深く読ませて頂きました。
    西洋と東洋の比較、確かにそうですね。例えば庭園などにもその違いは見られます。シンメトリーで視点のある西洋、回遊することで視点を変える東洋、というように。

    ファッションのことは詳しくわかりませんが、単純に西洋のそれに沿って勝負することが全てでなないような気がします。モリハナエが東洋を求められたのは、単なる新しいスターが欲しかったのではなく、西洋の美意識にはないものを補ったとも見られるような気もするのです。川久保玲もそうでしょうか。

    つまり、西と東の美意識がようやくファッションに備わったのが現在という理解です。他の文化は、モダニズムという観点からグローバルスタンダードが確立されたように感じますが、ファッションにおいては、あまりにも生活に近い場所にあった文化であったため、モダニズムの魔法は届かず、ぞれぞれの文化がそれぞれの文化圏で純粋に育っていたように思うのです。もっと言えば、東洋が入ることによって、ようやく世界の文化として語れるものになったのではないか、ということです。

    内と外が完全に別れている西洋と、内と外に縁側という中間領域がある東洋/日本とでは、その環境で育ってきたことを考えれば、出てくるものは、違ってしかるべきだと思います。しかし、現代では生活ですら西洋に近づいていっています。西洋の様式美を取り入れたものの1つとして、お茶が上げられると思います。その場合、様式を作法と言い換えていますけどね。

    ならば、日本独自の文化があるかというと元々大陸から入ってきた文化ばかりですが、私は日本文化の本質の1つとして「間」というものがあるのではないかと考えています。西洋では長さそのものを数字で表すのに対し、日本では柱と柱の間を1つの単位としてその数で長さを表しました。柱の太さ、どのくらいの間隔にするかによって長さは変化するので、単位にはならないような気もしますが。それで良しとする。

    日本人ってそういうモンなんでしょうね。

    西洋と東洋の比較は、ほんとうに面白い。個人的には、両者が線上に相反するのではなく、円の対角線上に位置するものだと思っています。粗と整も、同じものなのかな、と感じました。

  3. >オボカタ
    コメントありがとうございます。
    うーん、なんとコメントを返していいか困るのですが…

    ファッションについて。
    洋装は東洋的感覚をこのように取り入れたと思うのですが、東洋ファッション、更に言えば和装は西洋的感覚を取り入れられたのでしょうか?
    和装はそのしきたりを崩せず、西洋感覚を取り込めず、洋装に移行してしまったような気がします。

    それは東と西の単純な力関係であり、モダニゼーションというのがそのまま西洋化を表すということなのか?
    または和のしきたりに洋のテイストを取り込むことは、和の美意識観点から受け入れられないことだったのか?

    洋装に非構築を持ち込んでも洋装でありえたのに、和装に構築を持ち込んでしまったらそれは洋装になってしまうような気がします。
    これは力関係によって私に刷り込まれた意識なのか?

    和装に洋服地を使うと、ミスマッチという強い拒否感を覚えそうな気がします。
    これは和の美意識に洋は受け入れがたいからなのか?

    洋のテイストを持ち込んで和服を作ることはありえるのでしょうか
    ?
    美術界ではようやく邦画の技法で洋画を描くというのが出てきたようです。

    さて、まとまりませんでした…

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